前書き
軌跡シリーズとの出会い
感想を書いていく前に、少しだけ自分語りをしたいと思う。久々の感想記事で思わず筆が乗ってしまい、消すのも勿体ないのでデフォルト非表示として置いておく。
[Read More]感想を書いていく前に、少しだけ自分語りをしたいと思う。久々の感想記事で思わず筆が乗ってしまい、消すのも勿体ないのでデフォルト非表示として置いておく。
[Read More]社会人になったのが2021年のこと。上京と初めての一人暮らしでドギマギしながらの新生活に揉まれ、会社の同期や先輩・後輩社員の方々にも恵まれた勤労を甘受しているうちに、気がつけば月日が経過していた。
それが私の人生においてどれくらいのインパクトであったかは、このブログの直近三年くらいを見返していただけるとお分かりいただけると思う。大学(院)を卒業した2021年春以降、急速に更新が衰えていたのがなぜかは言うまでもない。
とはいえ、最初の一年はなんだかんだ余裕があった……というより、あらゆるものが刺激的すぎて、体や精神が疲れを感じなかったと言うべきか。一人暮らししてすぐの頃、カレーを作ろうとして指を切り落としかけたこと1。今なお残るコロナウイルスによる災害に「灯火管制」とも揶揄された外出制限2。記事にもしたが、初めて夜のお台場をドライブした時の興奮と感動3。緊急事態宣言解除後の開放感、初めてのヒトカラ、初めてのチーム飲み会、初めてのカーシェアリング。初めての、初めての……。
そうやって毎日を生きているうちに、二度、三度と年を跨いでいた。今や友人とのドライブは珍しくもなく、新鮮に思えた都会の夜景も、今となっては地を這うゴキブリやネズミの方に気を取られるくらいには陳腐になった。複雑怪奇でミステリアスだったはずの都心の路線も、今ではなんとなく把握できてしまっている。今や少しばかりの刺激よりかは、空調の効いた部屋で寝転ぶ方に気持ちが傾く有様だ4。
悪い成長に思い至りやすい一方、良き成長ももちろんあった。比較的些細なことについての神経質さは薄れて、ほんの少しだけ図太くなれた気がする。とはいえ相変わらずメンタルが豆腐なので、種類が絹から木綿に変わったくらいの感覚だが。
ともかく、こうした変化を以て「大人になったねえ」などと言い切ってしまって良いものか。人生そんなものだよと笑う自分もいれば、そう易々と言い訳に逃げるんじゃないよだなんて、冷ややかな目で制する自分もいる。
まあ、全てではないにせよ、かなりの部分が「大人」になってしまったのは事実だろう。これは悟りというよりかは、半ば諦めに近い。
[Read More]去る2023年の年末、私は、唐突に「歩きたい」という欲求に駆られました。
「散歩なんか普通だろ、とっととやれ」という感想を持たれた方も多いと思いますが、いやいや、そんなレベルの「歩きたい」ではなかったのです。より強力な、いわば「自分の限界を超えるくらいの長距離を歩きたい」という欲求でした。
なぜそんなことを思ったのか? それは、この世の中が余りにもしんどすぎるため1、いっそ限界を越えたらどうなるんだろう(見える世界が変わったりするんだろうか?)という知的好奇心によるものです。「どうせ生きているだけで心がキュッと絞られるようなことが多いし、もう握りつぶす勢いでやってみたらどうか」的なメンヘラ特有の精神ムーブ2であることは否めませんが、とにかく、生まれた衝動が冷めぬうちに仲間内からも参加者を募ったところ、無事に数人で長距離ウォーキングを決行することになりました。私と同様、友人らも人生への疲れと救済を求めていたのかもしれません。
この記事では、その計画から実行までの経緯と結果と、歩いている際の映像をずんだもん動画に編集した事例についてご紹介します。
[Read More]人間、ひょんなことから唐突に行動を起こすことがある。ゴミを踏んだのをきっかけに部屋全体の掃除を始めたり、不快なニュースの見出しを読んだのをきっかけにSNSで憂さ晴らしを始めたりするし、あるいは何の気なしにドライブに行きたいと友人へ言ったらとんとん拍子に話が進んですぐ行くことになったりもする。
今回の私はまさにこれだった。晩御飯を食べ終えた夕暮れに、ふと浮かんだドライブという言葉1。まあ断られるだろうなと思って友人Aに声をかけると、思っていた以上に反応がいい。さらに友人Bも巻き込んで(彼が車を出してくれることになった)、気が付けば品川駅東口に立っている自分がいた。
夜の街へ誘うキャッチの人々を横目に同乗者の友人を待つ。が、なかなかやってこない。暇なので、数日前まで話題になっていた回廊を眺めてみる。柱の上部に設置されている複数台のディスプレイから流れているのは天気予報や無難なものばかりで、一人たりとも画面へ注意を向けていない。まったく、どうでもいいものに対しては誰だって寛容でいられるものだ。
去る金曜日に、6年間在籍していた大学を修士でようやく卒業しました。2年前の学士卒業の時は全く感慨を感じなかったのですが(そのまま院に上がったので当然と言えば当然)、今回は大学を去るためかそれなりに感じるものがありました。
学生生活を、ゆるく振り返ってみます。
[Read More]先日、D・カーネギー著の『人を動かす』という本を読みました。
内容をざっくり要約すると、相手を動かしたいなら批判を避けよ、親切になれ、相手の立場で物事を考えろ……というように、考えてみれば当たり前のことばかりが書かれています。
しかし、この本のよいところは、きちんと具体例(実際の事例)が記述してあるという点です。
読めば読むほど納得感が出てくる仕組みになっていて、読後は「明日から人には優しくしよう」という気持ちになれます。
親切は巡り巡って自分にとって利益になる。いわゆる『情けは人の為ならず』『取らんと欲する者は先ず与えよ』『三方よし』というやつですね。
私もこれらを理解していたつもりではありましたが、いざ『人を動かす』を読んで実際の事例に触れてみると、ますます他人へ優しくしようと思えてきたのです。感情論ではなく、明確な実利があるのですから。
これだけ読むと、そりゃあいい考えじゃないか、とっとと優しく生きていけよ、と思う方も多いと思います。
ただ、やはりと言うか、これがなかなか難しいのです。
去年の七月、PS Storeで買って放置していた閃の軌跡I:改をたまたまプレイして以来、私は日本ファルコムのファンになりました。
そして、続けて閃の軌跡IIIをプレイし終えたところで、これはIVをプレイする前に過去作全部やらないとダメなヤツだなと察知し、約一年かけて4空の軌跡三部作/零・碧の軌跡をプレイして、その後に閃の軌跡IVをプレイし終えました。
我ながらよくやったと思いますし、過去作を全てプレイしたことで、一ファンとして作品を語る上での自信にもなりました。例えば、去年に私が閃の軌跡I/IIをレビューした際には過去作知識が全く無かったために、当時存在していた過去作との比較による批判は理解ができなかったわけです。今であればそういった批判も理解できますし、その上で再度述べさせてもらうと、閃の軌跡I/IIについての個人的な評価は全く変わっていません。良作だと思っています。I/IIについては。
空三部作、零・碧も本当に良い作品でした。私は特に零・碧を推したい。テーマ性が極めて明確で、プレイした後でも胸に残るものがあります。特に零の終盤、古戦場に向かうシーケンスの震えるほどカッコいいこと!5 リアルタイムでプレイしていた時は深夜だったのですが、テンションが上がり切ってしまい、結局朝方までプレイしたのを覚えています。
軌跡シリーズは本当に良作揃いなんですよ。再度書きますが『プレイ後に残るものがある』のです。テーマ性が描き出した主人公らの葛藤が、プレイヤーの心に欠片を残してくれるのです。
プレイヤーに消費されるだけで(あるいは、それのみを意図して開発されて)一ヶ月後には内容をさっぱり忘れられる作品とは違います6。
……と、ここまで褒めちぎっていて何なのですが、上記文章で私が褒めていない作品があることにお気づきかと思います。そう、閃の軌跡III/IVですね。
散々言われていることですが、もうはっきり書きます。閃の軌跡III/IVについては、ファンである私も評価できませんでした。特にIVについては、褒めるところがほとんどありません。
まあ、IIIはまだ良かった。新しいキャラと共に、主人公であるリィンの先が語られたわけですから。グラフィックも向上して、新鮮味もあって、まだ褒める点もありました。
IVはダメです。(好きな方がいたら申し訳ないのですが)空・零・碧・閃の中で唯一、ラストで全く感動できない作品でした。IIIから引っ張った展開で目新しさがほとんどなく、ラストで不要・冗長なエンディング分岐をさせてみたり7、分かりにくい謎の当て字を多用してみたり8、何度も同じ言い回しを使ってみたり9、悪い点は枚挙に暇がありません。
終盤のミシュラムでの絆イベントもコピペレベルで、見ていて辛いものがありました。そりゃ怒る人も出るでしょうと。
ラストに辿りつく頃には疲労困憊。挙げ句の果てに、残念バッドエンドです、トゥルーエンドを見るには追加でモンスター倒してラスボス再攻略してください、と言われてコントローラーを投げそうになりましたね。あれは一種のトラウマです。
そんな事情もあり、IVのプレイ後、直前にプレイしていた零・碧の出来が極めて良かっただけに、私の中で一種の疑念が生まれていました。曰く、「ファルコムは、今後どういう舵をきるのか?」と。
私はファルコムの思想はすごく好きです。音楽に力を入れていて、プレイヤーに一定の利用許可を出すほどの胆力もある。ゲームの起動時に邪悪で不快な『警告』メッセージ10を出すこともない。ゲームの細かな機能、UXも悪くない。GOG.comのような、プレイヤーの自由を尊重するDRMフリーのストアにもPC移植版をリリースしている11。こちらのことをよく見てくれているなと感じます。だから海外での人気が高いのでしょう。
しかし、シナリオを重視するRPGと謳っているからには、相応の質が必要です。伴っていなければ、『ゲーム』としてはやはり失敗ですから。
つまるところ、IVの路線で今後続けるつもりであれば、購入の継続も厳しいなと本能的に感じてしまったわけです。
そのため、今後もイースシリーズ含めファルコム製品の購入を継続するか――すなわち、ファルコムを応援し続けるかを見極める試金石として、今作『創の軌跡』を購入してプレイすることにしました。
前置きが長くなってしまいました。これらの事情を踏まえた上で、ここから『創の軌跡』についての感想と評価・レビューを述べていきます。
発売されて間もないこともあり、ネタバレは最低限に押さえていますが、感想(批評)の都合上触れざるを得ない点がありますので、ネタバレが気になる方はクリア後の閲覧を推奨します。
ネタバレリスクを認識した上で、読みたい方はread more。
[Read More]深い、深い青色の空に、橙色がヒビとなって広がっている。晴れた日の夕焼けは誰もが美しいと思うだろうけれど、僕はその夕焼けが終わる直前――橙色が消え始める頃の空が、一番好きだ。朝焼けも同様に好きになれるのだろうけれど、僕は早朝に目を覚ます性分ではないから、いつも夕焼けを目にしている。
[Read More]就職活動も終わり、長かった大学生活も末端が見えてきた。モラトリアムは閉じて、人は地を蹴って進む。蝋で固めた翼を広げて、それが溶けぬ夜のうちに、月へ向けて飛び立たんとするのである。
[Read More]最近、特にオープンソースという言葉の乱用についてよく考えます。理由は単純で、その結果もたらされるFLOSSの未来が不安だから。
少し長いうえ、序盤から後半にかけての流れが冗長かもしれません。駄文かもしれませんが、自分の考えを整理するのも含め、一度自分の抱えている不安について書いてみます。
私は自由ソフトウェアの思想が好きです。私が物心ついた時には、用途問わず自由に利用できるライブラリやフレームワーク、ソフトウェアが既に多数ありました。さらに、プロプライエタリに匹敵、あるいは凌駕する偉大な自由ソフトウェアの数々を見てきました1。GNUのウェブサイトを読んで、素晴らしい思想だとも思いました2。
GPLを好んで使うかはともかくとして、少なくとも、誰であっても差別なく自由に再配布、改造、組み込み、利用できるソフトウェアというのは、本当に価値があることです。そういった自由のあるものにこそ、人は協力するのが良いと考えています3。
人がわざわざ車輪の再開発をする必要は(独占を防ぐ等の一部程度で)ほぼありません4。もし自由ソフトウェアがなければ、各々は自分たちで全て手作りする必要があったでしょう。あるいは、高額な金を払って何らかのライブラリやフレームワークを買うかです(かつてはコンパイラすら高額だったように)。結果として、実質的に開発できるのは膨大な資本力と体力がある一部の企業に限られ、それ以外の中小は末端の仕事しかできなくなります。そうなると、自由に誰もが参入して発展させられる場所はないでしょう。進歩の速度は低下し、ITの導入は高額になり、多くの人の興味を削ぐ。プログラミングをするのに鉱山を削ったり物資を調達する必要はほぼないにも関わらず、です。
自由ソフトウェアの概念が発達したおかげで、人々は多くのソースコードを大手を振って共有することができるようになりました。そして現在のように、誰もが気軽に高品質なソフトウェアを書ける世界ができたわけです。何より、自由ソフトウェアはその開発者が開発を止めてしまったとしても別の誰かによって開発を継続させられます。これは(A)GPLが目指した理想の一つです。プロプライエタリは作者の死後70年まで誰もメンテナンスできないのと対象的ですね。
その他にも自由ソフトウェアの利点は挙げられますが、とにかく、様々な利点を我々は享受しています。