バス停からの山道を登って老街に着いた頃には、もう陽が落ちてきていた。薄い霧に混じった小雨が、ベージュの半袖から飛び出した腕に何本かの線をつけて滴る。老街のあちこちにぶら下がる提灯は霧越しにぼんやりとした光を放っていて、きっと、晴れた日に見えるそれよりも幾分か綺麗だ……なんて思えるのは、私の心境のせいだろうか。つくづく、綺麗という感性は極めて主観的だなと思う。
つまるところ、人の認識というのは幻想だ。陽の位置や天気といった現象も、感覚器官の刺激を脳が処理して初めて認識される。極端なことを言えば、夜を明るいと感じる人にとっては毎日が白夜だろうし、雨好きにとっての豪雨は多数派にとっての快晴と同じ立ち位置なんだろう。それが客観的に正しいかどうかなんて、本人にとって極めてどうでもいいことだから。
よって、隣で年甲斐もなくはしゃいでいる友人――一緒に海外旅行にまで来たリンとカナにモヤモヤとした感情を抱いてしまうのも、私が私である以上は仕方がないことなんだと思う。嫌いになったとか退屈とかそういうものじゃなくて、とにかくこう、言語化できず掴みどころのない不快感だけが認識にあるというか。言うなれば、絡みついて離れない粘っこい霧のような。
「めっちゃええ街やん!」
リンは感嘆の声を漏らしながら、ミラーレス一眼でしきりに建物や人流を撮影している。肩出しのカットソーの彼女がカメラを振り回している一方、道の隅に立つカナはダボ袖を捲ってタバコに火をつけようとしていた。
名付けという行為は大事だ。目に見えない現象は名前を付けることで初めて共有できるようになるし、人類はその積み重ねで発展してきたとも言える。だから私もこのモヤモヤ感情に名前をつけるべきだ。つまり、えーと……現地の言葉で、これを瘴雾と呼ぶことにしよう。ようやく名前もついたので、改めて瘴雾の発端について思い出してみた。
私が瘴雾を初めて認識したのは、旅行二日目の夜だった。二日目の夜までは日本から直接来た私とリンの二人だけで異国を回っていたのだけれど1、別の国へ赴任していたカナが夜からこっちへ来てくれたのでホテルで合流。お腹が空いたというカナを連れて、みんなでご飯を食べようと夜市へ向かったところが発端だ。
リンとカナは二人ともおしゃべりな関西人で、学生時代からウマが合う存在だった。こだわりが強い頭脳派なリンと舌が回って口が上手いカナのコンビは、アニメで出そうなくらいに理想的なバランスだ。思い返せば、私とリンは大学に入ってすぐからの付き合いだけど、リンとカナは大学三年くらいからの仲だったはず。それでも二人が仲良くなるのはあっという間だったし、カナはコミュ力がとても高かったから、陰気がちな私でもすぐに打ち解けることができた2。逆に言えば、決して話が上手ではない私が、息ピッタリな二人の会話に溶け込むのは少し難しいような感じもして……とはいえ別に、本人たちが私を拒否しているわけでも除け者にしているわけじゃない。問題があるとすれば、それは私の認識そのものなのだけれども。
今回の旅行でも、私たち三人が集まれば何が起こるかなんてことは自明といえば自明だったのかもしれない。それでも私はリンやカナと旅行できることが嬉しかったし、心底とても本当に楽しみにしていたのだ。だから、旅行先における二人の化学反応なんて事前に考えたりせず――いつの間にか私は、活気が溢れてキラキラと看板が光る夜市の中、前を歩く二人の背中をただただ追いかけるだけの虚無に成り果てていた。それでも、入った食堂で真っ先に水を持ってきてくれたのはカナだったし、不慣れな英語で注文を通してくれたのはリンだ。私といえば、周りに座る現地の人たちを見回して、異国の地で私たちが粗相をしていないかを心配していただけだった。名実ともに虚無だったというわけである。
二人の見えている世界と私の見えている世界には、少なからずズレがある。もちろん認識の問題だ。でも、その壁を簡単に越えられないのが私という生き物だった。
ゆえに翌日、夕暮れ時の風景が映えるという老街に行くことになっても構造は変わらない。向かう電車の中でも二人は楽しそうに会話を続けて、私は静かな乗客に睨まれないかで気を揉んでいる。そんなとき、ふいに私の右肩をリンが叩いてこう言ったのだ。
「ねえ、今の見た? 工事現場でめちゃ危ない作業の仕方してたよ。なんか、意識が低いよね」
そういうわけで、私は目を伏してますます気を揉む羽目になった。しかしいくら揉んだところで、何になるわけでもないなんてのは分かりきっている。状況改善のための行動につながることもない。つまるところ、こうした知性的に見えるだけの思索は須らくコミュ力――ないしは、愛情不足起因の代償的なものに過ぎないのだから。
その角度から事実を捉え直してみると、瘴雾とは所詮、私という人間の卑屈さを映す鏡でしかないのかもしれない。
屋根から垂れる雨水を避けて、細い割に人通りの多い商店街の道を歩いていく。豚骨特有の滾った匂いが鼻をついて、避けるように横を向いた先ではこんがり肉の塊たちが銀色の棒に突き刺さっていた。まるで映画の世界の中にでも来たみたいだ。
「ああ、酒! 酒が置いてある!」
私が諦めて前を向いた瞬間、先頭を歩いていたカナが大声で叫んだ。黒のダボ袖越しに指差していたのは道の脇にある小さな店の入り口で、店内に酒瓶の入った棚があるのが確かに確認できた。カナは不摂生で俗なものが好きだから、こういった観光地での飲酒がしたくてたまらないんだろう。
店に近づいてみると、店の奥には外と繋がるカウンター席があるのが見えた。店は崖沿いに建っているらしく、席からは他の家々など風景が一望できそうだ。酒やつまみを食べながらパノラマも楽しめるというのには、確かに惹かれるものがある。
「そんなにお酒が飲みたいの?」
「その質問は野暮ちゃう? んなもん、誰だって飲みたいに決まってるでしょ!」
私の質問へカナは食い気味に答えて、こちらの返事を待たずに酒棚へと早足で向かった。相変わらず酒とタバコには目がない。
「あのカウンター席、酒飲みながら風景も一望できそうやんな。いい写真が撮れそう」
リンも興味が湧いたのか、軽い足取りでカメラ片手に店へと入っていく。腰を下ろしたら落ち着いてしまいそうだなと思いつつ、私もそれに続くことにした。
カウンター上に放置されていた空き瓶を脇へ退かしつつ、眼前に広がる外の景色を眺めた。山の斜面沿いに老街の家々、古めかしいトタン屋根が連なっている。その背後にうっすら見える霧がかった山脈が、人混みとは対照的に落ち着いた風情を街へ与えているように見えた。その雰囲気に当てられてか、ありもしない懐かしさ3がこみ上げてくるような気分になる。あくまで気分であって、実際にそんな情緒を感じ取れるほど高尚な人間ではないにせよ。
「ユイ、どうしたん? さっきから元気ないなあ」
無言で外を見つめる私を不審に思ったのか、リンがこちらを覗き込むようにして視界へと入ってきた。あまりの近さに、目のピントが合うまで一瞬の間が生まれる。彼女は不思議そうな表情をしていたから、反射的に私は顔を背けた。
「……だって、リンたちがデリカシーないんだもん」
「ほう?」
リンが首を傾げる。客観的にはいじらしい仕草も、今の私にとってはやや不快だった。
「さっきの電車だって、現地の人たちがいるのに『意識が低い』とか言ってさ。現地の人が聞き取れてたらどう思うのかって考えた? 私がどれだけヒヤヒヤしたか」
感情の波に任せて、一息で文句を言い切る。すると少しだけ胸がすいたような心持ちがして、
「あー、うん」
「ま、まあ、別にいいんだけどね」
リンが気まずそうに頭を掻いたから、咄嗟にそうフォローした。
「なんていうか、それはごめんけど、でも他人の目気にしとったら海外旅行なんかできへんで?」
「分かってる」
「ならええやんか。で、そうだ、私も酒取ってくるから荷物見ててよ。ユイは何飲む?」
「え? 私は――」
違う、そうじゃない。私が欲しかったのは謝罪でも疑問でもない、そんな安っぽい言葉じゃなくて。
「――瓶ビール。普通のやつ」
「オッケー」
私はため息がてら適当に答えると、リンは小さく笑みを浮かべて店の入口へと戻っていった。ああ、要らない気を遣わせてしまったのかもしれない。あるいはシンプルに面倒がられたか。多分後者だろうな。
「ここまで来て何やってんだろ」
髪をぐしゃぐしゃと掻き回してから、さらに大きく息を漏らす。いい加減、自分自身への愛想が底をつきかけていた。自分で自分を追い込んでいるんだから、自分のことながら全く世話がない。
……
…………
「カナ、マジでこの道で合ってるん?」
「多分合ってるやろ。マップにはこっちって出てるで」
「マ? ってかそれ何吸ってんねん」
「え、ヤニ」
「さすがに草」
「まあ草やからな」
「……」
「ちゃうんやって、これはゲームで言うところのセーブなの。君らもダンジョン行く前にセーブするでしょ」
「いや、さっき店で酒飲みながらセーブしてなかった?」
「ええの! これは上書きセーブやから」
「もうヤニに脳みそが侵食されてそう」
「言っとけ言っとけ。でもな、ウチの税金のおかげで国が回っとんねんで。大口納税者様なんやからむしろ敬ってほしい」
「はいはい。でもほら、ユイの顔見てみ」
「ん……ちょっと、そんな表情せえへんといてよ! 心痛なるぅ」
…………
……
老街の有名な建物4を探して歩いた結果、私たちは人気のない開けた場所に出てきてしまった。細い上り坂を進んだりしていた時点で怪しいと思っていたけど、案の定というべきか。その間で天候は若干改善して、今ではわずかに雨粒が降っていることを感じられる程度だった。お目当ての建物が全く見当たらないからか、横でリンとカナがやいのやいの言い合っている。とはいえこの適当さである、半分以上が予定調和だろう。
甘噛みを続ける二人から離れて、古びた木製の柵が立つ崖に近づいてみた。下にはさっき歩いた老街が広がっていて、かすかにその喧騒が聞こえる。遠くには海と陸の先端が見えたものの、景色は小雨と曇りに包まれて大部分が霞んでいた。
私はスマホを取り出してインカメに切り替える。マスクを着けた自分の顔と背景の位置を少し調整してから、5秒タイマーをセット。日本向けスマホ特有の大きな撮影音がするのを待ってから、撮れた絵を確認する。うん、まあこんなもんだろう。忙しない路上でもなく、絵として映える建物でもなく、これくらいぼやけて捉え所のないような風景の方が、自分という被写体の背景にはお似合いだ。
「何してんの?」
画面から目を上げると、苦笑いしながら画面を覗き込もうとするカナの姿があった。私は慌てて胸元にスマホを引っ込める。
「ちょっと、撮ってただけ」
「そうなんか。でも天気悪いしほとんど見えんくない?」
「私はこういう寂しい風景が好きなの。シックというか、落ち着いてるというか。キラキラした風景も嫌いじゃないけど、落ち着かないから」
「相変わらず変わってんねえ。まあ、そういうとこがおもろいんやけどな」
「……私はネタでやってないってば」
「はは、ごめんて」
勝手に面白がられた私が口を尖らせたのを見て、彼女は冗談めいた口調で謝りながら紙タバコを口に含んだ。白い煙がゆっくりと眼前に広がりながら、蕨のようなうねりを帯びて上っていく。そういえば旅行が始まって以来、こんな風にカナと二人だけで話すのは初めてかもしれなかった――なんて考え出すと変に意識してしまうので、頭を軽く左右に振って思考を中断する。
というかリンの姿が見えない。ついさっきまでカナと話していたはずだけど、どこへ行ったんだろう。
「ねえ、リンは?」
「トイレ探しに行った。さっき飲んだビールが効いたんちゃう? 利尿作用ってやつ」
「そっか」
「そう……ってか全然話変わるんやけど、一個聞きたいことがあったわ」
「うん?」
話半分にぼんやり紫煙を眺めていると、唐突にカナからそう問いかけられた。
「この旅行、最初に企画してくれたのはユイなんやっけ?」
「一応はね。でも日程とか行き先くらいしか企画してないよ。ホテルだって現地に着いてから予約したくらいだし。その他、細かい準備はリンが全部やってくれたから」
「でも、発起人としてウチらに声をかけてくれたのは事実やんね」
ふう、とカナが大きく息を吐き出す。彼女の口腔に溜まっていたであろう煙が、空間に真っ直ぐな線を描いた。タバコってそんなに美味しいものなんだろうか。
「ウチもリンも、自分から言い出すタイプちゃうからな。仮に声かけるとしてもさ、同じ日本にいたリンはともかく、ウチみたいな海外赴任の人間に普通は声かけへんやろ」
「それは、やっぱりカナとも会いたかったし」
「ホンマに?」
「ホントに」
これは本心だ。明るいカナと話すのはシンプルに楽しいし、普段のテンションの割にリンよりも失言は少ない傾向にあるから、神経が尖っているときでも比較的安心できるというポイントもあった5。実際、今回の旅行の案を初めて考えたときも、同行者候補としてリンとカナはほとんど同時に浮上した。最初に声をかけたのは流石にリンの方だったものの、別にそれは好感度で選んだわけじゃない。単純に日本住み同士ゆえの心理的距離ベースな問題だと思う。多分。
とにかく、三人で旅行したいと思って進めていた計画はこうして現実に叶っている。これ以上何かを求める事自体、おこがましいと言えばその通りだ。
でも、人間というのは欲が出てしまう。リンと二人で巡っていたときは、すべてが充実しているように感じられた。博物館でリンの手を引いたときの温もり。タワーで撮ってもらった記念写真。現実からやや切り離された、ふわふわで曖昧な空間。だからこそ「二人でこんなにも楽しいなら、三人になったらどれだけ幸せになれるんだろう?」と無邪気な想像を抱えたまま、楽観的にカナを迎えてしまったのだ。結果的に二人と私の間に溝が生まれて……というより、生まれたように感じられて、私だけ現実に引き戻されてしまったけど。
「やっぱな、ユイと吸うタバコはやっぱ美味い気がするわ」
「嘘くさ」
「いや、ホンマよ」
悶々と考え込む私の隣で、カナはにっこりと笑みを浮かべてくれていた。その表情を見ていると、リンがカナと話したくなる気持ちが分かる気がする。だとすればなおさら、私はどういう顔をしていればいいんだろう。ますます分からない。
「さーてと、充填完了」
カナはその場へ屈むと、路面の水溜りにタバコを何度か擦り付けて火を消し、再び持ち上げた。十分に水を吸った吸い殻はすっかり萎びている。彼女は満足そうに頷くと、ポケットから取り出したケースへそれをぽとりと落としてみせた。
リンがスッキリした顔で戻ってきてから、私たちはもう一度スマホのマップを見ながら目的地へと歩き出した。細い階段を降り、路地を通り、何軒かの民宿を過ぎたところで、再び大勢の人が歩く通りに出る。そのまま人波に流されてしばらくすると、あっけなくお目当ての建物――有名な映画のモデルになったと言われている、雅で大きな五階建ての木造建築――の前に到着することができた。いっそマップを見ずに人流に沿って歩いていた方が、より素早くたどり着けていたのかもしれない。なんせ、観光地の有名所なんて大勢が観に来るのだから。
人でごった返している中、建物に沿って伸びる石畳の階段を下る。建物の写真が撮りたかったので、中腹あたりで見つけた細長い空間に退避した。そこは斜面から突き出たような格好の場所で、崖側に落下防止用の鉄柵が張られている。真ん中には台車を押すこぶりな男の銅像6が置いてあった。配置的に偉人という感じではないし、何かの記念に作られたものだろうか。私よりも小さいくらいの背丈に、なんとなく親近感を覚えてしまう。
「うーん、ここで撮ってもええけど、ベストではないかもな。ちょい下から見上げる感じになるし」
建物へ向けたカメラのファインダーを睨むリンの言葉に、横で様子を見ていたカナがうーんと唸った。確かに、この角度から見える建物は赤い提灯や装飾こそ光っているものの、向き的にやや暗いし、距離的にも写真に収めたときに一部しか入らなそうだ。本当はもう少し別の向きかつやや遠めの距離で撮影できるといいんだろう。
「ネットで見た綺麗な全景写真ってどこで撮ってんのやろ」
「あれは向かいにある店のテラスから撮ってるらしい。まあでも、今からじゃもう遅いだろうね。もっと早くから並ばなあかんかったやつやろ」
「ですよねー」
カナはひとしきり悩んでから、やや申し訳なさそうに私に尋ねてきた。
「どないする? ユイがええなら、ウチはここで撮ってもええんちゃうって思う」
「私は、別に」
「旅行発案者というか、こういう場所に一番来たかったんはユイやろ? ウチやリンは正直来れただけで楽しめてるっていうか。こんなとこ滅多に来れへんのやし、ユイの好きにしたらええと思う」
そう優しい口調で話す彼女の言葉に、私の心はぎゅっと絞られたような感じがした。タバコを吸いながら話してくれた通り、カナは本心で私のことを気遣ってくれているのだと思う。そんなことは分かっている。分かってるんだ。
「……私だけなんだよね」
「え?」
「ううん、何でもない」
結局、私だけなんだよね。空気が読めなくて、コミュ力がなくて、面倒くさいのは。
せっかくの旅行なんだから、もっと和気藹々とすべきなのは当たり前だ。大きな声ではっきりと話して、積極的に旅行を主導して、いろいろ気を利かせてみんながハッピーになれるように動いたりするべきだ。だって発案者なんだから。いわば幹事でしょ? ナヨナヨしてないでしっかりしなよ。二人も内心どう思ってるんだろうね? 口だけで準備しない私のことをよく思ってないかも。いや、絶対そうだ。だから二人で楽しんでるんだよ。でもそれを責めることなんかできやしない。
だって、何もかも私が悪い。誰だって私を見ればイライラするだろう。そのくせ気を遣わせる。存在するだけでマイナスなのだ。だから、
「私、その有名なテラスの様子を見てくるよ。時間かかると思うし、リンとカナは自由に回ってて。入れるか分かったらまた連絡するから」
「行くん?」
「うん」
私は精一杯の笑顔を作って、二人にそう答える。返事をきちんと聞く前に足は動いていた。きょとんとしたカナの脇をするりと抜けて、人が流れる階段へと進む。
そうだ、私がいなければいい。私は一人でいいんだ。そうすれば気楽だし、何も考えなくていい。お互いに傷つかずに済む。
二人もその方が過ごしやすくていいだろう。気が遣えて相性のいい同士で旅行を楽しめばいい――
「待ってよ」
後ろから強い力で左の手首を掴まれて、ループしかけていた思考が中断される。驚いて振り返ると、ややムッとした様子のリンがこちらを睨んでいた。
「それは、ちょっとずるくない?」
「ずるいって、何が?」
「まさにそういうとこ」
食い下がった私に呆れた声色で答えてから、彼女はようやく私の手を離した。そのままやれやれと言わんばかりに小さく息を吐き出すと、
「ちょいこれ持ってて」
差し出されたミラーレス一眼を私が受け取ると、リンはポシェットからハンカチを取り出し、立っていた銅像の頭の上に置いた。私の方へ手まねきしてきたので、近づいてカメラを手渡す。彼女は器用にカメラをハンカチの上に置くと、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ええ感じや。よし、セルフタイマーにするから、建物を後ろにしてはよ並んで」
「え、待って」
「セットした! ほら、ユイもこっち来て」
リンは私の左腕を掴むと、ぐいと強引に腕を組んできた。お互いの頭の熱が伝わる距離への突然の接近に胸が跳ねる。そんな私の表情が面白かったのか、カナも声を上げて笑いながら私の右腕へ腕を絡ませてきた。両脇が柔らかい上に少し温くてこそばゆいのは、人生史上初めての経験だ。カメラを頭に載せた銅像も、心なしかわずかに微笑んでいるように思える。nn
「リン、お前にコイツは渡せへん!」
「悪いね、ユイとの付き合いは私の方が長いんだよ」
そんな風に左右からお調子者の声を聞いていたら、瘴雾なんて上の空、不思議と頬が綻んできて、
「セイ、ピース!」
パシャリと、心地よいシャッター音が響く。この時の私の表情は、ひょっとすると、人生の中で一番綺麗だったのかもしれない。
一日目の夜に現地入りしたので、二人で回れたのは実質丸一日。二日目はホテル近くの博物館を回ってから、有名なタワーの展望台に登った。展望台エレベーター入口では一眼カメラを構えたプロが立っていて、半ば強制的に撮影された写真の
自分は髪の毛がボサボサで恥ずかったけど、面白がったリンに押されて結局二枚を購入してしまった。値段は二枚で二千円強くらいで思ったよりも安かった。 ↩︎初期の頃、口達者すぎるカナを信用できずに喧嘩したが、リンの仲介もあってなんだかんだ和解できた。今>では笑い話になって、一年に一回くらい、未だに当時のことをネタにされることがある。 ↩︎
ノスタルジックというカタカナは好きじゃない。郷愁という言葉には、もっと深い意味が込められている気がするから。 ↩︎
リンがさっきネットで調べて出てきたもの。私たちは下調べを全くしないので、大抵は行き当たりばったりで行き先を決めている。 ↩︎
平時のリンの失言が多いという訳ではなく、リンとカナが合わさった場合にリンの方が意外に調子乗りがちなケースが多い気がする。が、ただの思い込みかもしれない。 ↩︎
結局、この銅像が何なのかは最後まで分からずじまいだった。 ↩︎