親切さと防衛機制


情けは人の為ならず

先日、D・カーネギー著の『人を動かす』という本を読みました。
内容をざっくり要約すると、相手を動かしたいなら批判を避けよ、親切になれ、相手の立場で物事を考えろ……というように、考えてみれば当たり前のことばかりが書かれています。
しかし、この本のよいところは、きちんと具体例(実際の事例)が記述してあるという点です。
読めば読むほど納得感が出てくる仕組みになっていて、読後は「明日から人には優しくしよう」という気持ちになれます。
親切は巡り巡って自分にとって利益になる。いわゆる『情けは人の為ならず』『取らんと欲する者は先ず与えよ』『三方よし』というやつですね。
私もこれらを理解していたつもりではありましたが、いざ『人を動かす』を読んで実際の事例に触れてみると、ますます他人へ優しくしようと思えてきたのです。感情論ではなく、明確な実利があるのですから。

これだけ読むと、そりゃあいい考えじゃないか、とっとと優しく生きていけよ、と思う方も多いと思います。
ただ、やはりと言うか、これがなかなか難しいのです。

読みたてホヤホヤの頃は、今まで知らなかった知識を身に着けた気持ちで一杯でした。言うなれば、新しいプログラミング言語やフレームワークを知った時に似ているでしょうか。
マイナス要素はなく、絶対的にプラス。当然こうした知識は駆使するに限ります。
私は早速試してみることにしました。とはいえこのご時世、あちこち外へ出て人とワイワイするわけにもいきません。そんなわけで、私は日本が誇る某巨大掲示板1で優しく振る舞ってみよう、と考えたのです。
都合がいいことに、私はとある板とスレでお世話になっています2。得た知識を活かし、早速ここで効果を検証することにしました。

さて、いいタイミングはないかなと機会を窺います。一日、二日はずっと平和なままでした。小鳥たちが囀り、人々は歌うような牧歌的な光景です。
ですが悲しいかな、ここはジャパン・インターネッツの極北。幸か不幸か、ささいなきっかけからスレ内で喧嘩が始まってしまいました。牧歌的な光景はどこへやら、一瞬で殺伐とした雰囲気が満ちてきます。
今までの私であれば、まーたやっとるという気持ちでしばらくスレを離れていました。喉元過ぎれば云々、大半の喧嘩は一日も過ぎれば鎮火します。とはいえ、多少なりとも住人らに被害は及ぶでしょう。

私は自らを奮い立たせます。今こそ『人を動かす』の実践ではないか! 私は意気揚々とスマホをタップし、穏やかな口調でこう書き込みました。「攻撃的な言葉を使うから相手も引き下がれなくなる、丁寧な対応をしなければお互いが損をするだけだよ」と。
書き込んだ後、しばらくスマホを放置します3。ドキドキタイム、ピンと張る緊張の糸。

そして数十分が経った頃にスレを開き直してみると……なんと、無事に喧嘩の仲裁に成功していたのです! 雰囲気は明らかに改善し、飛び去った小鳥たちも戻りつつありました。これで再び平和に暮らすことができます。優しくすることで利益を得ることに成功したわけです。
私は達成感に震えました。同時に、なんでこんな単純なことに気が付かなかったのか、と過去の自分を恥じたのです。きっと逃してきたであろう利益の数々が脳裏をよぎります4。私は親切の化身になろうと決めました。

スマホを机に置いてリビングへ行くと、柴犬が床に寝そべりながら私を見つめてきました。私は彼女の腹を足で撫でながら、心でこう呟きました。
「実にいい気分だ。これこそが、情けは人の為ならずの極致か」

人間の脆さ

しかし、この気分は長く続きません。同日夜、同じスレで情報交換をしていたときの事です。ある人が書き込んだ内容に、私は若干の懸念を感じました。内容が少し肯定的すぎないか、と。
そこで私は、その懸念を言語化して書き込んでみたのです。数分後、レスがついて――その一行目には、明らかな皮肉が混じっていました。私はムッとしましたが、D・カーネギーの顔写真を思い出し平静さを取り戻します。
相手を認めつつあくまで穏やかに、やんわりと懸念を説明しました。ですが案の定というか、ついたのはぶっきらぼうな内容の返事のみで、私の親切さを担保するガラスハートは、呆気なくガシャンと壊れてしまったのです5

よく考えてみると、私の懸念の示し方がよくなかったのだと思います。『人を動かす』にも、議論はできる限り避けた方がよい、なぜならば相手を言い負かすことは自尊心を傷付けることになるから、と書かれていました。
私はうっかり、相手の自尊心のしっぽを踏んでしまったのかもしれません。やってしまった、と今では反省しています。

が、問題は、私が懸念の示し方に失敗したという点ではありません。私のガラスハートが壊れた時に中から浮かんできたものこそが問題で、それは何を隠そう、相手の皮肉に対する皮肉、論破の論理でした。自制して書き込みはしませんでしたが、親切な自分を失うのには十分すぎる毒々しさを持ったものです。
意趣返し、という言葉があります。復讐の連鎖とはこういうことなのだなと実感しました。

『人を動かす』には、親切の結果、成功した例が多く述べられています。一方で、親切の結果、失敗した例はさほど述べられていません。これは当然でしょう、生煮えの事例を詰め込んだところで意味はないのですから。
ただ、私は思ったのです。常に親切に振る舞うのは、想像以上に難しいと。

恩を仇で返す、という言葉は時として傲慢に映ります。勝手に親切にして、勝手に利益を期待して、それが得られなかったがために勝手に怒るだなんて、バカバカしいものです。
そんなことは分かっています。当たる確率の方が外れる確率より大きいことも、仮に外れたとして、その際に怒ったところで何もならないことも。
でも、それでも、一つの親切さに一つの見返りを期待してしまう自分がいるのです。無償の愛を無条件に与えられるほど、私は――あえて誇張するならば、多くの人は――強くないのです。
だからこそ、私は『人を動かす』に感銘を受けたのかもしれません。親切が実利になることが示されていたから。
しかし、その裏にある多くの屍と、要求される思慮深さと忍耐強さには不注意でした。だからこそ、相手の悪意に対して悪意が浮かんできてしまったのです。
相手を倒すためではなく、自分自身を守るために。本能的に防衛機制が働くのでしょう。
私は、まだまだ弱かった。

人の心の難しさ

『人を動かす』には、人の心についても書かれています。曰く、相手の心、欲求を満たしてあげることで、自分に利益がもたらされると。
ですが、世の中、事例ほど上手くいかないことが多くあります。無条件に相手を肯定すればいいというものでもありません。譲れない一線だってあるでしょう。誰かの幸福は、誰かにとっての不幸であることもよくあります。政治ならなおさらです。
そのとき、双方にどう折り合いを付けるのか。悩みは尽きません。

今回の教訓から学べたことがあります。それは、いずれにせよ、相手の心に対して関心を持つべきだということです。
常に相手に親切に振る舞い、双方に利益があるようにする。これは訓練されたプロの技術です。本を読んだだけの人間が至るには、時間も体力も必要でしょう。
しかしそれでも、相手がどう考え、何を望んでいるのかを考えることくらいはできます。相手の心情を把握すると出せる手札も変わってきますし、カードの種類が豊富であれば多少の余裕は生まれるものです。

まずは相手をゆっくり観察し、手札を増やす。その後、時間をかけてでもじっくり選択を考える。これを繰り返すことで、『人を動かす』境地に至ることができるのかもしれません。
そして、本記事を書く過程でさらに気付いたことがあります。この訓練とインターネット、特にSNSや掲示板の類は、基本的に相性が悪いということです。

『半年ROMれ』。厳しいようで優しい深みのあるインターネットことわざの代表格ですが、この金言を胸に、ネットの片隅に佇む今日この頃です。


  1. あえて名は出しませんが、フランスに移住した元管理者の方が有名です。 ↩︎

  2. SNS、Twitterはやらない主義なので、掲示板を情報交換に用いています。 ↩︎

  3. 自治厨乙、とか書き込まれてたら泣いちゃうからね……。 ↩︎

  4. 人はこれを皮算用と呼ぶのですが。 ↩︎

  5. そういう反応を想定できる場所ならいいですけど(なんJやVIPとか)、真面目な場所で食らうとマジでへこみませんか? ↩︎