橙色と泡
深い、深い青色の空に、橙色がヒビとなって広がっている。晴れた日の夕焼けは誰もが美しいと思うだろうけれど、僕はその夕焼けが終わる直前――橙色が消え始める頃の空が、一番好きだ。朝焼けも同様に好きになれるのだろうけれど、僕は早朝に目を覚ます性分ではないから、いつも夕焼けを目にしている。
でも、どうして好きなのだろうと考えると、いろんな答えが頭を巡って、どう結論づけるべきか迷ってしまう。青色と橙色のコントラストが美しいから。消える瞬間に儚さを覚えるから。あるいは、何となく。どれも正しいような気もするし、間違っているような気もする。うん、きっとそれが答えなのだろう。ゼロイチで決まることではなくて、様々な感性と経験のうねりによって、好きという言葉が導出されるのだと思う。
ただ、橙色に光るヒビを空に見つけると、毎回思い出すことがある。それは、家族や、サークルの友人たちと一緒に行ったキャンプ場で見た、炭火の色だ。
夜の暗がりの中、黒色の炭の後ろでぼうっと光る橙色の光。炭のヒビからちらちらと炎も見えて、そこから発せられた光が周りにいる人の顔を照らす。照らされる顔は千差万別だ。笑う顔、渋い顔、儚げな顔。いろいろな顔と一緒に、炭火を囲んでいたという記憶。ぱちぱち、と炭が爆ぜる音も蘇ってくる。
空のヒビを見ると、その光景が頭の中に泡のように浮かんで、僕はなんだか温かい気持ちになるのだ。それは僕にとって『好き』とは少し違う感覚で、言葉にするなら、いわゆる『幸せ』と形容されるものだと思う。……いや、もしかすると、『幸せになれるから好き』、なのかもしれない。
ふわふわとした、心地の良い幸せ。空の炭火は徐々に大きな記憶の泡となって、頭の中から外へ漏れ出して、僕を包んで浮かせてくれる。泡の中で僕は、纏っていた重苦しいいろいろを捨てて、裸の生身となって、炭火の向こうに見えた幸せを手にすることができるのだ。泡がそのまま空へ連れて行ってくれたら、僕は幸せであり続けられるのだろう。きっと、二度と戻ってこられないほどに。
でも、それは長く続かない。続かないのだ。空を見るのを止めても、しばらくは泡の中で生きていられる。けれど、泡は何かの拍子にさっぱり弾けてしまう。
きっかけはいろいろだ。テレビのニュース。人との会話。映画。アニメ。小説。泡の幸せは、ぱちり、という音と共に消える。残るのは、自分だけ。
泡から放り出された僕は、惨めだ。防具を失った冒険者が敵にボコボコにされるように、泡を失った僕は無防備で、現実の鋭さに耐えられない。矢のように、針のように、現実は僕を貫こうとする。それも手足ではなくて、自分が自分である証明、心を、現実が突き刺す。
悲鳴は上がらない。現実と過去の間では、救いはない。自身の過去を自身で否定することはできないからだ。同様に、現実は受け入れるしかないからだ。
悲鳴は上がらない。自分自身を見つめることは、自分自身の発見にしかならない。空に浮かんだヒビの向こうには、自身の憐憫しか残っていないからだ。
分かっている。分かっているのだ。安易な救いは許されない。僕は精神を病んでいる。でも、それでも、僕は生きる道を選んだのだ。
だから、もし、『幸せになれるから好き』が真なのだとしたら、僕の泡は、橙色のヒビは、汚い自己愛でしかないのだろうか。
とすれば、空に大好きなヒビを見つけたとき、僕は一体何を思えばいいのだろう。
夜、昼間の温もりがかすかに残る部屋でベッドに倒れて、まどろみの中で、僕はずっと考えている。
深い、深い青色の空に、ヒビとなって広がる橙色のことを。二度と戻らない、ずっと幸せで、とても大切な、自身の手垢にまみれた過去のことを。