最近、特にオープンソースという言葉の乱用についてよく考えます。理由は単純で、その結果もたらされるFLOSSの未来が不安だから。
少し長いうえ、序盤から後半にかけての流れが冗長かもしれません。駄文かもしれませんが、自分の考えを整理するのも含め、一度自分の抱えている不安について書いてみます。
自由ソフトウェアの偉大さ
私は自由ソフトウェアの思想が好きです。私が物心ついた時には、用途問わず自由に利用できるライブラリやフレームワーク、ソフトウェアが既に多数ありました。さらに、プロプライエタリに匹敵、あるいは凌駕する偉大な自由ソフトウェアの数々を見てきました1。GNUのウェブサイトを読んで、素晴らしい思想だとも思いました2。
GPLを好んで使うかはともかくとして、少なくとも、誰であっても差別なく自由に再配布、改造、組み込み、利用できるソフトウェアというのは、本当に価値があることです。そういった自由のあるものにこそ、人は協力するのが良いと考えています3。
人がわざわざ車輪の再開発をする必要は(独占を防ぐ等の一部程度で)ほぼありません4。もし自由ソフトウェアがなければ、各々は自分たちで全て手作りする必要があったでしょう。あるいは、高額な金を払って何らかのライブラリやフレームワークを買うかです(かつてはコンパイラすら高額だったように)。結果として、実質的に開発できるのは膨大な資本力と体力がある一部の企業に限られ、それ以外の中小は末端の仕事しかできなくなります。そうなると、自由に誰もが参入して発展させられる場所はないでしょう。進歩の速度は低下し、ITの導入は高額になり、多くの人の興味を削ぐ。プログラミングをするのに鉱山を削ったり物資を調達する必要はほぼないにも関わらず、です。
自由ソフトウェアの概念が発達したおかげで、人々は多くのソースコードを大手を振って共有することができるようになりました。そして現在のように、誰もが気軽に高品質なソフトウェアを書ける世界ができたわけです。何より、自由ソフトウェアはその開発者が開発を止めてしまったとしても別の誰かによって開発を継続させられます。これは(A)GPLが目指した理想の一つです。プロプライエタリは作者の死後70年まで誰もメンテナンスできないのと対象的ですね。
その他にも自由ソフトウェアの利点は挙げられますが、とにかく、様々な利点を我々は享受しています。
オープンソースの台頭とそれに対する攻撃
しかし、最近では自由ソフトウェアではなくオープンソースという言葉が広く使われるようになりました。ニュースのコメント欄や業界の人と話しても、皆さんオープンソースオープンソースと仰います。フリーソフトウェア、自由ソフトウェアと呼ぶ方は希少です。ただ、私は、それ自体について批判する気はありません。Permissiveなライセンスは必要だったでしょうし、全てをGPLにする必要はないという意見には賛同します5。
私が一番懸念しているのは、オープンソースではないものをオープンソースと呼ぶ風潮が一部にあり、それを受け入れてしまった人々が存在するということです。そして、彼らは明らかにオープンソースの原点たる自由ソフトウェアの思想を理解していませんし、お互いに対等な関係を築こうとしていません。意地悪な言い方をすれば、自分らに都合のいい部分だけ善意の貢献として横取りして、自分たちに都合が悪い部分は禁止する流れです。
Business Source License (BSL)やCommons Clauseが良い例でしょう。OSIの定義からしてこれは『オープン』ではありません6。が、一部にはこれを『オープン』と呼び、これこそが未来だと主張する人々もいるのです7。
日本で言う『フリー素材』のように、明確な定義がない言葉での混乱ならまあ許容できますが8、オープンソースについてはOSIによる明確な定義が存在し、業界が気にする程度にはコンセンサスが取れているはずです6。
Commons Clauseについては最悪で、Commonsという言葉がかなり大きな自由を想起させる上、特定のライセンス(名)に乗っかるために混乱を招くと思っています。実際にこのライセンスへは批判があったようですが9、安直に使おうとしていた企業が存在するということに落胆せざるを得ません。
新たな『オープン』を主張する人々は他人によるフリーライドが許せないと言います。ですが、彼ら自身がやっていることはどうなのでしょう。彼らも多くの自由ソフトウェアやオープンソース(FLOSS)を利用しているはずです。違うとは言わせません。そんな立場でありながら、既存のFLOSSのありかたを批判した上で定義を歪め、あまつさえ自分たちはその言葉や人気を利用するのは決して褒められたものではないでしょう。他人をフリーライドと呼ぶなら、彼らも同様にFLOSSのコミュニティに対してフリーライドしていると言われかねません。
ただし、これが直接的10に周りへ不利益を与えないのであれば理解できますし、FLOSSの目指してきた哲学を踏まえた回答なら納得もできます。私とて、教条主義者、ルール絶対主義者ではないし、多くの方がそうでしょう11。したがってこれら二つが達成されていれば、彼らの行動には正当性がありますから、多数の同意が得られるはずです。
しかし、考えてみてください。オープンソースの定義を歪めることは明らかに周りに対して不利益を直接的に与えます12。何より、ユーザーの自由は? 用途によって差別しないという原則は? 全てが置き去りにされていませんか13。彼らは先人たちの意思や哲学を無視し、自分たちの
新たな概念を認めないOSIがダメなんだ、と主張する方もいらっしゃいますが、それだったら自分たちで新しい言葉と定義を作って広めればよいではないですか。新しいライセンスが自分のウェブページで広報に励んでいるように14。既存の明確な定義がある言葉を改造するのに対しては、いささか不純な動機だと思います。
誤解を招きそうなので言っておくと、私は例えば「BSLを使うな」みたいなことを言いたいのではありません(もちろん、好きではありませんけれど)。BSL、さらに言えばプロプライエタリ、それ自体は悪いことではないし、ビジネス上必要なのだとしたらそうすればよいと思います。あらゆる企業が全てのプロダクトをFLOSSで公開するのは無理でしょう。
あくまで私が主張したいのは、プロプライエタリを『オープン』とか『自由』と呼ぶのは欺瞞だし、周りに対して直接的に悪影響を及ぼすのでやめるべき、ということだけです。
正々堂々と自由のために戦い、貢献をしてきた先人たちに対する敬意と謙虚さが感じられない態度に対してのみ、私は憤りを覚えるのです。
あえて言えば、そういった『自由』について覚悟がないなら、最初からFLOSSで作るべきではないと思います。そうすることを誰も強制していないのですから。
例えば、アニメーションライブラリで有名なGSAPはFLOSSではありませんが、自身のウェブサイトで「我々はオープンソースを尊重しているが、いくつかの点を考えて別の選択をした。これは我々のライセンスが優れているということを言いたいのではない」という旨の説明をしています15。結果として彼らはアニメーションライブラリ界で重鎮となりました。こうすればいいのです。
思うに、BSLのようなライセンス形態には、新たな言葉が必要なのでしょう。個人的には「ハーフリミテッドソース」とか「中立ソフトウェア」とかの名前にしておけば良いんじゃないかと考えますが、いかがでしょうか。
不安と危機感
こうした動きもあり、最近は未来のことを考えると不安でどうしようもなくなることがあります。今はFLOSSが多くて自由な場所が確保できているけれども、十年後に同じような環境を維持できているでしょうか。
利権や独占目当てで自由に対して攻撃を仕掛けてくる人々は少なからずいるでしょう。それに対するカウンターが今までは機能していました。しかし、FSFからストールマン氏が去り、リーナス氏すらおとなしくなってしまった(これは悪いことではないですが)現状で攻撃を受けた時、果たして守っていけるのかが不安です。
私も協力できるならしたいですが、私はウィザードではありませんし、特段どこかが優れてもいません。権力を振りかざし、ロビー活動を繰り返す攻撃的な人々にどう対抗すればいいのか、パッと思いつくほどIQが高いわけでもありません。寄付はできますが、それだけで上手くいくとは思えません。
世界的に、ユーザーのことよりも自分たちの利益を保護する方向にまだ体が向いている気がしています。徐々に人々もそんな体制に疑問を持ち始めているようですが16、疑問が行動に変わるにはまだ時間がかかるでしょう。オープンソースの言葉を乱用する問題もそんな歪みから生まれた問題の一つでしかなくて、過剰な保護、パテント・トロール、ポリティカル・コレクトネスの暴走……こうした問題たちから自由を守り育てていくには、シングルイシューではなく、様々な観点から議論を進めて戦っていく必要があります。そして論理武装と実績の両方を着実に積み上げていかなければ、多くの人々に受け入れられず、権威の言いなりになってしまうでしょう。それは避けなければなりません。
あらゆるライセンスがオープンソースという名のプロプライエタリになり「そんな自由とかなくていいじゃん」のような言葉が飛び交うのが日常、一部の企業により権利が独占され身動きも取れない、そんな最悪の展開を迎えないために何ができるのでしょうか。
一つは寄付の取り組みを普及させることかもしれません。例えばGitHub Sponsors17のような仕組みはFLOSSの継続に役立つ可能性があります。ただ、既存の資本主義的な価値観を残したままでは「寄付しないやつは人間的に云々?」というような、誤ったマウント合戦の道具に使われるかもしれません。FLOSSにおいて貢献は必ずしもお金だけではないのですが、生活にはお金が必要という点が話をややこしくするのでしょう。FLOSSにおいてペイウォールは退化です。技術やシステムによる外圧ではなく、自由ソフトウェア『運動』が目指していたように、むしろ思想や哲学によって人々を内面から説得して変えていかないといけないのでしょうね。
私は来年から社会人です。社会に出てやりたいことは山ほどあるけれど、それを達成するにはソフトウェアの自由が不可欠だと考えています。「社会人にはなれたけど、先に社会がダメになってしまった!」なんて洒落になりません。
今後自分はどうすべきが、本当に悩んでいます。正直少し辛い面もありますが、しかしこうやって考えることが重要なのだとも思っています。人生という物語は、正しく絶望するところがスタートなのですから。
参考文献
- 我々はフリーソフトウェアの定義を再考すべきなのだろうか?, yomoyomo氏, 2020年02月02日閲覧
- バベルのインターネットと FOSS, Spiegel氏, 2020年02月02日閲覧
- Copyright Trolls, Electronic Frontier Foundation, 2020年02月02日閲覧
Linuxのような巨人はもちろん、例えばBlenderやGIMPなども有名でしょう。特にGIMPにはお世話になっています。ありがとう。 ↩︎
自由がなぜ好きなのかと言えば、お互いに対等な関係になるからです。片方が偉いとか強いということもなく、純粋に相手が自由を提供してくれるからこちらもそれに報いよう、協力しようという気持ちになります(返報性の原理)。協力の仕方は人によって変わるでしょう。バグ報告、コードの貢献、寄付などがあります。もちろん利用によって知名度を広めるのも一つの協力ですね。 ↩︎
やはり、多少の冗長性は必要でしょう。例えば、ブラウザのエンジンを一〇〇種類作る必要はありませんが、独占による腐敗を防ぐためにも三つくらいはあってほしいし、そのバランスは保つ努力をするべきと思います。ちなみに私はFirefoxを使っていますし、不定期にMozillaへ寄付をしています(謎の自己主張)。 ↩︎
GNUですらPermissiveなApache License 2.0には肯定的です : https://www.gnu.org/licenses/license-list.ja.html#apache2 ↩︎
例えば最近だと彼らが有名です : https://blog.sentry.io/2019/11/06/relicensing-sentry ↩︎
曖昧な定義を積極的に使いたいとは思いませんが、現状そうなってしまっているものについては仕方がない点もあります。 ↩︎
直接的、というのが重要です。「間接的な影響もある!」と言う人もいますが、それを言い出したら世の中の全てが間接的に影響を受けあっている以上キリがありませんし、誰も幸せになりません。 ↩︎
本質的な問題や背景にある哲学に目を向けず、「ルールがそうだからダメなんだ」と答える人間はこの世で一番愚かです。これだけはたとえ批判されようとも確固たる自信を持って主張します。彼らはしばしば『正義』という単語を好みますが、彼らの方こそ社会にとっては有害と言えるでしょう。なぜなら、彼らは「なぜそうなっているのか、それは本当に正しいのか」を考えようとしないからです。柔軟性がなく視野が狭い上、周りを抑圧し、改善すべき点はそのまま放置してしまう。正義マンは私が一番苦手な人種です。 ↩︎
ライセンスの互換性の問題が一番大きいと思う。 ↩︎
やや話は逸れますが、自分たちがいかに金を得るかどうかしか考えず、まず最初にユーザーへ価値を提供するという基本的な考えが抜け落ちている人は心の底から苦手です。『損して得とれ』という言葉の意味が分かっていないのでしょう。そういう人が上に立つと、映画の冒頭ではユーザーを潜在的に悪だと決めつける不快な映像を流すし、ゲームの冒頭にもスキップ不能な『警告』文をデカデカと掲示するし、公共の福祉や憲法を無視した検閲を国民投票抜きでごく一部のためだけに実施しようとするのではないですか。そしてDRMによってユーザーを奴隷同然にするのも厭わない。相手を軽視し、せいぜい金蔓としか思っていないのではと感じます。 ↩︎
https://www.mongodb.com/licensing/server-side-public-license ↩︎
現在の形の資本主義、過半数が不信感=調査, ロイター, 2020年02月02日閲覧 ↩︎