正月
年末になると、暖冬と呼ばれていたのが嘘であるかのように思えてきた。
少しくらい薄着でもいいか、と思えたのはたった一週間前のことだ。それがたった数日で、朝晩着替えるのが億劫になるほどの寒さに変貌したのだから、今年の気候のバイタリティは大したものである。
寒いのは、何も人間だけではない。モフモフの毛皮を持つ動物、我が家が誇る老犬も漏れなく対象だ。
そしてこの犬、人間の年齢に換算すれば我が家庭内での長老になることは間違いない老犬なだけあって、足腰が弱りボケも入る、果ては座ることもままならず、北風が吹けばそれに合わせてふわりふらりと揺れる有様。
水や餌も地面に置いたままではなく、わざわざ口元まで持っていかねば摂ることもできない。おまけに夕飯はブルブルと寒そうに震えながら食べるものだから、不憫に思った父が食事後に犬用の毛布をかけてやっていた。
毛布は好評のようで、くるまって寝る姿をよく見かけるようになった。老犬と言えどもその姿は可愛らしいものである。
年末の慌ただしさは日中だけにとどまらない。例えば、夜が更けて私が寝床につくと、外から唸るような重低音が聞こえてくる。弟のバイクのエンジン音だ。
しばらくするとその音が消えて、代わりにガチャリと玄関のドアが開く音がする。そして、バタバタとする音、いくつかの声、玄関のドアが閉まる音が挟まって、最後に再び重低音が復活し、すぐに遠くへ消えていった。
このように、年末における弟の行動パターンは単純である。バイトに行くか、ツーリングにいくかの二択だ。時間帯からして、今回の場合は友人に誘われてのツーリングだろう。
「誰がこんな遅くに出かけるのよ……」
と、母が苛立ち気味に愚痴をこぼすのが聞こえた。
その翌日、起きて外をちらと見やる。既に弟のバイクがなかった。一度は帰ってきているはずなのだが。
さて、年末は父と母がよく争う。まあいつも争っているような気もするが、年末は特に些細なことで争おうとする。例えば、以下の通りである。
「なあ、お前、昨日セーターを洗濯に出しただろ」
父が私に向かって言ってきたので、出した、と答えると、
「会社のやつに聞いたが、セーターなんて数日に一回洗うだけでいいらしい。お前もそうしろ」
と父が返してきた。すると、
「なんでそういうことを言うの! 勝手に決めないで!」
と、母が怒り始める。これにカチンと来たのか、
「何だと、俺はお前がその方が楽になるだろうと思って……」
と、父も憤ってみせる。「洗濯しないくせに文句ばっかり……」「何がだ、毎日洗うほうが……」と、会場の雰囲気は上がり調子である。
やれやれ、私はすっかり蚊帳の外だ。彼らの論戦は大抵半日くらい尾を引くし、関わっても碌なことにならない。
ではどうするか? 答えは単純。そうとも、自室に限る。
とはいえ、そんな私でも年越しの時くらいはリビングで過ごすものだ。なお、バラエティ嫌いの父の影響で、我が家の31日夜は原則紅白歌合戦しか視聴することができない。まあ、それはいいとしよう。
年越しまであと一、二時間といったところで、父親は近くの神社に年越し参拝に行っており不在、弟はあいも変わらずバイクで外に出ており不在。リビングにいたのは母と私だけであった。
年末のテレビに食傷気味だった私は、何をするでもなくリビングでのんびりとしていたが、どれ、暇だし作業でもするかとノートパソコンをリビングに持ちこもうとした。すると、それを見た母がこれまた憤って、
「テレビを見る気がないなら部屋から出ていけ」「邪魔」「本当に空気が読めない」
と罵声を浴びせてくる始末。
私は思わず大きくため息をついた。心の底から大きく、盛大に、呆れながらため息をついた。いいだろうか、これが近代家族である。私はせっかくの年末だからリビングにいようと、それで暇つぶしついでに作業をしようとしていただけなのだ。この家では共通の目的なしでは同じ部屋にいることも許されないのか。
私は半分呆れ、半分悲しみながら自室へと戻った。新年を祝う気にもなれなかった。
そして夜が明けた。流石に弟も帰ってきていた。お節料理を食べた。テレビは祝賀のコメントで氾濫していた。雲は流れて、いつの間にか夕方が近づいていた。ここまで何もやることがないと、時間の進みもあっという間に感じてしまう。だが、新年一日目の夕方についてはドタバタとして事情が違った。毎年一日の夜には親戚がやってくることもあり、諸々準備があるのである。この日の夜は近代家族の輪から解かれるのだ。新年早々辟易としていた私にとって、これは願ってもないイベントだった。
親の準備を手伝っていると、ピンポーンと音がして、いつもどおり親戚が来た。お邪魔しまーすという声が聞こえる。今年も元気がいい。ところで、犬はとうとう吠えなかった。
久々に鍋を囲むと、親戚は思い思いに話し始める。仕事の話、最近の話、学校はどうだ、テレビがどうだ。
私はもっぱら親戚と親が話をしているのを聞いて楽しんでいた。私はどちらかというと、話をするのが苦手だった。他人がしている会話を聞いて、あれこれ考える方が性に合っているのだ。普段は聞けない他人の世間話を肴に茹でた蟹をゆっくりと食べるのが、私にとって至福の時間だった。
気がつくと、話題は最近のアイドルの話になっていた。親戚と母や弟はこの話で盛り上がっていたが、私の他に、もう一人話に加わっていない人がいた。父である。
私は他人の話を聞くのが半ば趣味のようなものなのでいいとしても、父は別にそういうわけでもない。ではなぜ話に加わっていないのかというと、単純に父はアイドルに全く興味がないため、ついていけるだけの知識がなかったのである。
父は最初のうちこそどうにか話題に加わろうとするも、どうやら無理らしいと分かってからは、鍋の後に出された苺を食べながら、私の向かい側で手持ち無沙汰にしていた。
普段の父はよく話す人である。酒を飲んで酔っ払おうものなら、一人で延々と話し続けて、食卓の母が疎ましそうな目で睨むほどにはよく話す。他人がああ言えば自分はこう言う。そんな父が、話が盛り上がっている隣で静かに苺を食べているのが、私は新鮮に思えた。
助け舟でも出してやろうかと一瞬思ったが、そういえば、セーターの件といい日頃何かとうるさい父だ、たまには静かにしているのもいいだろうと、私は傍観することに決めた。
するとしばらくして、あまりに暇だったのだろう、父は空けたワインのコルクを見ると、それにプスリ、と食べた苺の爪楊枝を挿してみせた。
これは、私にとって衝撃的なことだった。
あの口うるさい父が、まるで子供みたいにコルクに爪楊枝を挿したのだ。コルクの上に挿された爪楊枝はいささか不格好なものだったが、父はそれを見てどこか満足げな表情を浮かべている。
この行動にどこか少年的ないたずら心とユーモアを感じた私は、傍観を決め込んでいるのもなんだかバカバカしくなって、同じ様に苺を一つ食べると、その爪楊枝を父親の方に差し出した。父親は何も言わずにコルクをこちらへ渡してきたので、私もプスリと爪楊枝を挿す。めでたく一本が二本になった。
私はそれを見て、久しぶりに父と一緒に遊んでいる心地がした。昔は、父とキャッチボールをして遊んでいたものだ。父が肩や足腰を悪くして以来、そうしたことはめっきりなかった。私はそのことを思い出して、過ぎ去った日々を偲んで、なんと言うか、思わず泣きそうになって、堪えた。コルクに挿さって並ぶ二つの不格好な爪楊枝。それは、どこか昔の私と父に似ているように思えてならなかった。
そうして楽しい時間は過ぎて、親戚が帰る頃合いになった。親戚のほとんどが玄関に向かっていくのを見送っていたところ、リビングで話す声を聞いた。気になってそちらに向かってみると、母と親戚の姉が話し込んでいるのが見えた。
アイドル談義でも盛り上がっていたので、さぞかし楽しく会話をしているのだろうと思っていたが、
「……もう定年だしねえ」
「……今後、どうやって暮らしていけばいいのよ」
「……そんなもの、切り詰めるか働くしかないじゃない」
「……世知辛いねえ」
「……でも、仕方ないじゃない」
電気も半分消された部屋で、後片付けをしながらそんな風に話しているようだった。到底楽しそうな会話ではない。
盛り上がる話の横で静かに過ごした父と、盛り上がる話の後で寂しい話をする母。その不思議な対比のイメージがぼんやりと浮かんだ。この世界には純粋なものなんてないのかもしれない。ほんの数年前までキラキラと輝いて見えた世界は、一体どこに行ってしまったのだろう。そんなモヤモヤとした気持ちを抱えたまま玄関に戻る。そうして、その後すぐに親戚全員が家を後にした。
親戚全員を見送った後で、弟が先に家の中に戻って、玄関先には父と母と私と、そして老犬が残った。
昔は人を元気よく見送っていた犬も、いまではよたよたと歩くのが精一杯の様子だ。しかも、寒いのかブルブルと震えていた。
「おいおい、大丈夫か」
父が震えている老犬に毛布をかけてやる。
犬はドカッと体を地面に落とす。震えはまだ続いていた。
「可哀想に、寒いんやろ」
父がそう言うと、今度は母が犬のそばに行って毛布の上から体をさする。
「もう夜も遅いし眠いよねえ、大丈夫よ……」
ゆっくりとさする度、犬は気持ち良さそうにゆっくりと瞼を閉じていく。
「これで眠れるんか」
「ゆっくりさすってあげれば眠れるでしょ、ほら、段々眠ってきた」
「おお、ホンマやな」
「かわいいねえ、まるで子供みたい」
「昔を思い出すな、昔はこうやって俺達も……」
「ホントよ、子供もこんな風にあやしてたら眠ってねえ」
年末に喧嘩していた父と母が、一緒に犬をあやして談笑している。
きっと、私や弟が小さい頃も、二人はこうして過ごしてきたんだろうなと思う。話して、喧嘩して、子供をあやして、仲直りして。
そしてふと、私は考える。仮に子供や犬がいなかったとしたら、二人はこうした優しさを持って過ごすことができるのだろうか。いつものように、ことあるごとに喧嘩を引き起こし続けるのだろうか。それとも、喧嘩をしないのだろうか。
…………私には分からない。
老犬はすっかり瞼を閉じて、すやすやと眠り始めていた。
しばらく経って、父がぽつりと呟く。
「なあ、やっぱりセーターは洗いすぎなんじゃないのか?」
「いいの、私が洗うんだから」
犬を撫でながら、母は穏やかな声でそう答えた。